古今東西のゲームに興じるブログ

当たり前を考えてみる

  
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当たり前を考えてみる

かつて購入し、確かに遊び、確かに時間を費やしたはずのゲームが、ある日突然、起動すらできなくなる。そんな出来事が日常の一コマとなってから久しくなりました。

私たちはこれを「時代の流れ」「運営上の判断」という言葉で受け止めてきました。仕方のないことだ、デジタルなのだから消えることもある、と。

しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。私たちは本当に、それらのゲームを所有していたのでしょうか。

ストアで購入し、インストールして、利用規約に同意する。その一連の行為の中で、私たちは無意識のうちに手に入れたと感じています。しかし実際には、多くの場合、得ているのは利用する権利に過ぎません。サーバーが停止すれば遊べない。配信が止まれば再取得できない。契約上は問題がなくとも手元からは失われます。それでも私たちは長らく、それを当然の前提として受け入れてきました。なぜでしょうか。

背景にあるのは、中央集権的な運営モデルです。オンラインゲームのデータは企業のサーバーに置かれ、アクセス権も運営側が管理します。利益が見込めなくなればサービスは終了します。法的にも、ビジネスとしても合理的です。効率という観点から見れば、自然な判断と言えるでしょう。けれども、「合理的であること」と「文化として妥当であること」は、同じなのでしょうか。

こうした疑問を公に掲げた動きの一つが、Stop Killing Gamesです。この活動は、オンラインゲームの完全停止によって購入者の体験が永久に失われる現状に対し、最低限の継続的プレイ手段の確保や法整備を求めています。2024年には欧州市民イニシアチブとして登録され、100万筆を超える署名が集まりました。いまやこの問題は、一部の愛好家の不満ではなく、公共的な議題として扱われ始めています。

重要なのは、この運動が単なる懐古主義ではないという点です。彼らが問うているのは、「古いゲームを残したい」という感情だけではなく、「デジタル時代における所有とは何か」という前提そのものだからです。

同様に、文化保存の分野でも動きがあります。アメリカのVideo Game History Foundationは、ゲームのソースコードや開発資料を収集、デジタルアーカイブ化し、研究者や公共に開く活動を続けています。年次報告では、商業終了後のソフトウェアが急速に失われている現状が示されています。

日本でも、ゲーム保存協会が資料保存と国際連携を進めています。著作権制度との折り合いを模索しながら、国内外のアーカイブ団体との協力体制を構築しています。これは単なる収集活動ではなく、「ゲームを文化として扱う」という姿勢の表明でもあります。

さらに、技術領域ではIPFSやArweaveといった分散型ストレージ技術が登場しています。これらはデータを単一のサーバーではなく、ネットワーク上に分散保存する仕組みを採用しています。理論上、特定の管理主体が消去を決定しても、ネットワーク全体が維持される限りデータは残ります。

とは言え、分散技術が万能であるわけではありません。維持コストの問題、違法データの扱い、長期的な持続可能性など、多くの課題を抱えています。何より、どのような価値観で運用するのかという思想が伴わなければ、仕組みは形骸化します。

それでも、これらのような動きが多発的に現れている事実は示唆的です。私たちは無意識のうちに、「デジタルのものは消えるのが自然だ」という前提を受け入れてきました。しかし今、その前提が揺らぎ始めています。

効率や収益性を重視する合理的な判断は、経営としては正しいのかもしれません。けれども、文化は必ずしも効率だけで測れるものではありません。過去の作品が残り、再発見され、引用され、再解釈されることで、新しい作品が生まれる。その循環があるからこそ、創作は厚みを持ちます。

「古今東西のゲームに興じる」という営みも、本来は時間を横断する行為です。何十年前の作品であっても、遊んだことがないのであれば、その人にとっては新作と同じです。過去と現在の連続性が断ち切られることを、私たちは本当に当然のこととして受け入れてよいのでしょうか。

ゲームが消えることは、本当に自然なことなのでしょうか。それとも、私たちがそう思い込んできただけなのでしょうか。

依存と効率を前提とした現在の構造を、一度脇に置いてみる。そこから見える景色が、これまでとは少し違って見えるのなら、今という時代の「当たり前」は、もう一度考え直す余地があるのかもしれません。

参考資料

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