昔の人「GOD←これ何て訳そ?」

ザビエル「アンジローくん、アンジローくん、デウスって日本語に訳すと何て言うの?」

ザビエルの通訳アンジローは長考した末にこう言ったそうな。

アンジロー「大日如来かと。」

ザビエル「なんそれ。」

身体の部位や誰しも使ってる日常的な道具など、一目瞭然なものであれば相手が例え異文明だろうと翻訳はそう難しくないでしょう。しかし目には見えない抽象的な概念、よもや信仰の対象ともなればアンジローのように長考して当然ではないでしょうか。だって唯一神で、万物の創造主で、父で、守護者で、立法者だと説明されてる存在を、日本語の中から探さなきゃいけないんですから。そんなんおる?

今年もいろんな本を読みましたが「ゴッドと上帝-歴史の中の翻訳者」柳父 章(著)が面白かったのでその内容に少し触れてみます。

現在、日本語でデウス、英語で言うところのGodは「神」と訳されてます。これはアメリカ人宣教師たちが日本での布教を行う際に、中国語訳の聖書を用いた結果のようです。

さて、こんなこと考えたことありますか?

『Godを神と訳すのは本当に正しいのか?』

かつてGodの訳を巡る用語論争がありました。

1840年代、イギリスとアメリカの宣教師たちが中国に集まり、中国語訳聖書改定の是非を議論しました。「神」って書かれてるけど、「上帝」の方がしっくりくるんじゃないの?と。

議論は折り合いがつかず、最終的に神を用いたものと上帝を用いたもの、2パターンの中国語訳聖書を出版しました。

明治になり、開国した日本にやってきたアメリカ人宣教師たちが持ってた聖書が、「神」バージョンの聖書だったというわけです。それ以来Godの日本語訳は神となりました。

それよりももうちょい前、アヘン戦争前夜とも言える時期に布教のため清国入りしたロバート・モリソンというイギリス人宣教師がいます。当時清では日本同様キリスト教が禁止されてたため、思うように布教活動ができなかったモリソンは聖書の翻訳と辞書の作成に注力しました。彼は聖書の中国語訳「神天聖書」を始め多くの功績を残した人物です。

彼は翻訳した際に「神」を用いましたが、モリソン自身それが腑に落ちなかったらしく改訂の必要を感じていたようです。清に長く身を置くことで「これ、ちゃうぞ。」となったのでしょう。モリソンは中国語の「神」はどちらかというと英語の「Spirit」に近いと考えていました。

モリソンが感じ取った西洋のGodと東洋の神の性質の違いは当然問題視され、モリソンの死後、先述の論争へと繋がります。かなり端折りますが両者の言い分はざっとこんな感じ。

  • 上帝派 – 至高の存在を意味し、それだけに用いられる中国語「上帝」こそがGodに相応しいよね
  • 神派 – 上帝だと世俗的で政治的支配者の意味に傾きすぎてるでしょ

そういった見直しの必要性が問われてた「God=神」という翻訳語ないし考え方が日本へやってきたわけです。

今回触れた「God誤訳問題」は以前から聞き及んでおり、現代人の価値観の根幹に関わるものとして、ちょっと調べてみるつもりでこの本を入手しました。

Godの訳が合ってる合ってないはひとまず置いておいて、漏れなく翻訳語に触れられる現代の我々は恵まれてるしラッキーだなとしみじみ。単語一つとっても実にディープな経緯が隠れてるもんです。誰かの翻訳や誰かが開発したツールのおかげで外国の物語やニュースに触れられる環境に改めて感謝しなきゃいかんなと感じた次第です。

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